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はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その1

こんにちは、ブログの中の人3です。

 

今回は今までの文学のお話から少し離れ、

中国史上に燦然と輝く群雄割拠の時代を記した「三国志」について書いてみます。

 

というのも実は、

某コンピュータゲームで各武将の名前やその運命を初めて知った…

といっても過言ではないほど、三国志についての知識はほぼ皆無でして…

 

もちろん「諸葛亮孔明」や「劉備」、「曹操」といった有名武将の名や功罪は知っていましたが、

そのほかの武将については、名前を聞いたことがある程度…

 

ですが、共にブログを書いている中の人1と2が相当な三国志好きですので、

これをいい機会に、三国志についての知識を深めようと思い、

このテーマを取り上げてみました。

 

私のように「三国志ってよくわかんないなあ…」という方はもちろん、

三国志が青春だ」という方にも楽しんで頂けるようなコラムを書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

それでは本題に入ります。

今回取り上げるのは蜀の武将・姜維です。

 三国志 武将 姜維 蜀 歴史 中国史

(画像引用:ウィキペディア)

 

→ 【次回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その2 はこちら

→【関連記事】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その3(最終回)はこちら

 

彼はかの名武将・曹操などを輩出した国・魏の生まれであり、

27歳まで魏に属していた人物だといわれています。

 

しかし、三国志上での主な功罪はほとんどが蜀の国でのものです。

 

なぜ魏の生まれである彼が蜀で名を馳せ、今日まで名を轟かせる武将となったか。

 その要因を個人的にまとめると

  1.諸葛亮孔明との出会い
  2.類稀な軍事力
  3.内政を全く顧みなかった故の破滅

 

この3点に集約されるのかな、と思います。

(あくまで三国志素人が語る個人的意見ですが…)

 

ではそんな姜維の功罪と生涯をポイントごとに追ってみましょう。

 

 

  1. 諸葛亮孔明との出会い

姜維は建安7年(202年)、天水郡冀県に、豪族の血筋として生を受けます。

前述したとおり、27歳まで天水郡の軍事に参与しました。

 

そして彼が27歳の年、今後の命運を左右する出来事が起こります。

諸葛亮孔明率いる、敵国・蜀が接近(北伐)の知らせを受け、

天水太守馬遵は姜維らを連れて領内の偵察を行います。

 

その最中、近隣の県が次々と蜀に降伏していることを耳にした馬遵は、

あろうことか自分の配下の姜維たちが諸葛亮孔明と内通しているのではと、

疑心暗鬼に駆られてしまいます。

 

そうして一人夜半逃亡し、上邽県城に立てこもってしまいます。

馬遵が逃亡したことを知った姜維らはもちろん馬遵の足取りをたどり、

上邽県城へとたどり着きます。

 

しかし時すでに遅し。

馬遵はもはや姜維たちの言葉に耳を傾ける余裕はありませんでした。

 

仕方なく冀県に戻った姜維たちでしたが、

そこでも受け入れてもらえず、

結果仕方なしに蜀に降伏することとなります。

 

この時なのか以前からなのかはわかりませんが、

名将・諸葛亮孔明は彼の才能を見抜き、

涼州最高の人材」と姜維を高く評価しました。

 

北伐時に失態・死罪となった愛弟子 馬謖を失ったタイミングもあったでしょうし、

姜維の年齢が、諸葛亮孔明劉備に取り立てられたのと同じ27歳だっとこともあるかもしれません。

 

なにより姜維本人の才能が諸葛亮孔明を魅了し、

姜維は以後蜀で順調に出世街道を歩いていくのでした。

 

この出会いがなければ、姜維の今日の名声はなかったかもしれません。

しかしこのことが、後々彼を破滅の道へと歩ませることにもなるのですが…

 

それはまた次回お届けします。

 

次回は諸葛亮孔明を魅了した、その類稀なる軍事力の一端をご紹介します。

 

→ 【次回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その2 はこちら

→【関連記事】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その3(最終回)はこちら

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