本の雑学ブログ | 日本出版サービス

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はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その3(最終回)

こんにちは、ブログの中の人3です。

 

前回に引き続き、

今回も中国史上に燦然と輝く

群雄割拠の時代を記した「三国志」について書いてみます。

 

今回は蜀の武将・姜維編 いよいよ最終回となる第三回です。

 

 三国志 武将 姜維 蜀 歴史 中国史

 (画像引用:ウィキペディア)

 

→【1回目】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その1 はこちら

→【前回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その2 はこちら

 

 

なぜ彼が蜀で名を馳せ、今日まで名を轟かせる武将となったのか、

その要因を個人的に考えると

  1.諸葛亮孔明との出会い
  2.類稀な軍事力
  3.内政を全く顧みなかった故の破滅

この3点に集約されるのかなと思います。

 

 今回は3点目、内政を全く顧みなかった姜維

その破滅に至る足どりを追います。

 

姜維が尊敬してやまない天才・諸葛亮孔明

その孔明とともに「蜀の四相」として並び称される武将・費禕(ひ い)が暗殺されると、

蜀の実権は姜維、そして時の皇帝・劉禅に取り入っていた陳祗の手に渡ります。

 

本来、亡くなった費禕に代わって粛々と内政を行うべき立場にいた姜維でしたが、

彼にとって蜀を繁栄させる方法はもはや「北伐」のみ

 

内政の安定や国力を養うことには目もくれず、

逆に、これまで北伐に1万以上の出兵を許可しなかった費禕の死を好機と見、

以降8回(全9回)の北伐を敢行していきます。

 

しかしハイペースなのは回数だけ。

在りし日の費禕の言葉通り、

ついに姜維は北伐において、これという功績をあげることができませんでした。

 

それどころか、北伐は蜀の兵力をどんどん減退させていきました。

 

成都でも、もはや狂気ともいえる姜維の北伐断行を支持する者は日に日に少なくなり、

彼は蜀からどんどん孤立していくこととなりました。

 

しかも北伐で彼が都を留守にしている間に、

内政の実権は陳祗ではなく宦官である黄皓に握られていました。

 

蜀滅亡の請負人とも目される宦官・黄皓

賄賂を好み、内政は神託頼りという体たらくで、

ただただ蜀を地に貶めていきました。

 

そんな黄皓もまた、姜維の北伐に辟易しており、

遂には姜維が成都にいない間に、彼を排する動きを見せ始めます。

 

諸葛瞻や董厥といった有力者もこれに同調し、

そのほかの有力者も反対する姿勢を見せなかったため、

いよいよ姜維蜀での地位を認められない孤独の存在となりました。

 

この動きにさすがに焦った姜維は、

劉禅黄皓の処刑を申し入れますが聞き入れられず、

本当の根無し草になってしまった彼はその後、

成都に帰還することはありませんでした。

 

最早蜀に国力・結束ともになし。

時を同じくして、敵の衰退を察した魏は、大群にて蜀に侵攻します。

 

魏の武将・鍾会の蜀侵入の知らせを聞いた姜維は、

成都にいる劉禅に救援要請を出します。

 

しかし成都にはもはや、姜維の声を聞く者はありませんでした。

時の権力者はもはや劉禅ではなく、姜維に辟易している黄皓

彼に援軍を向ける者は誰もいませんでした。

 

何より、これまでの北伐で兵力を使い切っていた蜀に、

援軍を送る余裕などすでに持ち合わせていませんでした。

 

263年、魏の武将・鍾会率いる軍勢に取り囲まれた姜維は、

剣閣に立てこもり必死の攻防を続けます。

 

しかし諦めていないのは前線のみ。

成都に攻め入った魏軍に驚いた劉禅は降伏、蜀は歴史上の滅亡を迎えます。

 

この知らせを受けた姜維の将兵たちは、

悔しさのあまり剣で石を叩き割ったといいます。

 

こうして蜀に、というより北伐に身を注いだ姜維の蜀時代は幕を閉じます。

 

 

ここで終わり…と思いきや、彼の数奇な人生はまだ終わりません。

 

なんとこの時姜維を攻めた鍾会に気に入られ、

事実上魏軍へ降ることとなります。

 

姜維はそこで、蜀再興を画策します。

 

というのも、鍾会自体が相当な野心家であり、

今回攻め立てた蜀の領土を奪い、魏からの独立を図ろうとしていたのです。

 

これを好機と見た姜維は、彼の独立心と野心を煽り、兵を立てようとしていました。

そして見事魏からの独立を果たした暁には、

鍾会を殺して蜀を再興しようと企んだのです。

 

しかし、同じ穴のムジナといいましょうか。

鍾会は残念ながら姜維以上に人望がありませんでした。

 

264年鍾会の乱が起りますが、彼を信じきれなかった配下の将兵に殺されます。

そしてこの時、姜維も共に命を落とします。

 

最後は自分が生まれ育った地の国(魏)の者として死んだ、蜀の戦士・姜維

 

彼はおそらく『北伐こそ蜀の繁栄の道』と信じていたのでしょうが、

一度立ち止まり、その信念が本当に正しいことなのかと、

周りに、そして自分に問うてみることはなかったのかも知れませんね。

 

いや、現代でも同じですね、勉強になります…。

 

 

いかがでしたか。

今回で『はじめての三国志 武将編 蜀・孤独の人 姜維』は終了です。

ご愛読いただいた皆様、本当にありがとうございました。

 

次回はまた文学に戻るか、ほかの武将に焦点を当てるか考え中です。

リクエストあればコメントいただけると嬉しいです。

 

ではまた次回。

 

→【1回目】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その1 はこちら

→【前回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その2 はこちら

→【関連記事】劉備という人 はこちら

 

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【新撰組】日本史にふれる夜 その6 

ブログの中の人2 第5回目の投稿

 

 

今夜は幕末に佐幕派として活躍した

新撰組について書いていきます

 

 

そもそも

新撰組は佐幕派

 

  

尊皇攘夷派(天皇をたてて海外からの外敵を撃退する動き)

の志士と敵対していました

 

 

今夜はまず

どうして新選組は組織されたのか

振り返っていきましょう!

 

 

 

1854年に黒船が来航することがそもそものきっかけとなります。

 

 

黒船来航後

 

アメリカに対し開国を許した幕府に不安を感じ、

倒幕して尊皇攘夷を成し遂げたい志士が増え始めました。

 

 

 

そこで

 

 

 

幕府は反幕勢力への弾圧を行いましたが

桜田門外の変で井伊直弼が倒幕派によって暗殺され

 

 

 

禁門の変で武力衝突が起こり

京都の治安が乱れます

 

 

 

そこで京都の守護を固めるため

会津藩松平容保京都守護職に任命され

 

 

後の局長となる芹沢鴨近藤勇らが京都に趣き

治安維持に努めることになったのです。

 

 

こうした流れがあり

新選組が組織されるきっかけとなったのですが、

 

 

さらに色々な企て、暗殺などがあり

世に知られている新選組ができあがっていきます。

 

 

 

次回はその詳細にふれていきたいと思います。

 

 

 

近代について書いた↓もぜひご覧ください。

 

日本史にふれる夜 その2

日本史にふれる夜 その3

日本史にふれる夜 その4

日本史にふれる夜 その5 

 

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蒼き狼(3)

蒼き狼(3)

鉄木真とその家族は成長し、ある程度の勢力を誇るようになっていた。そして鉄木真は妻を迎えた。ボルテという。

鉄木真とボルテは幸せな生活を送っていたが、ある日父エスガイに滅ぼされた部族の残党が復讐のため、ボルテを誘拐した。

鉄木真は協力者を得て、その部族を再度攻撃し、ボルテを奪還するが、ボルテはそのとき妊娠していた。

そしてボルテは男の子を産んだ。ボルテは鉄木真に名をつけるように尋ねた。その男の子が鉄木真の子供であると確実にわからないため、ボルテは鉄木真がその子を殺せと命令するのではないか、ということをとても恐れていた。

 

鉄木真の心の中はとても複雑な感情が渦巻いていた。その子に愛情を持てるかどうかも自信がなかった。しかし、彼はその子に「ジュチ」という名を与えた。モンゴル語で「客人」という意味である。

このことは鉄木真がその子を許したことも意味した。そして鉄木真はジュチを抱き上げ、言った。「俺は狼になるだろう、お前も狼になれ」。


ぼくが一番好きなシーンはこのシーンだ。

自分自身が背負っている運命と同じ運命をこの子も背負わなければならない。その運命は乱世のモンゴル高原で勝者になることである。同じ運命を背負った我が子ではないかもしれない赤子に対して「父親」が与えうる最大の愛ではないだろうか。

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はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その2

こんにちは、ブログの中の人3です。

 

前回に引き続き、

今回も中国史上に燦然と輝く

群雄割拠の時代を記した「三国志」について書いてみます。

 

今回は蜀の武将・姜維編 第二回です。

 

 三国志 武将 姜維 蜀 歴史 中国史

 (画像引用:ウィキペディア)

 

→【前回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その1 はこちら

→【次回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その3(最終回)はこちら

 

 前回の記事の中で申し上げた通り、

なぜ彼が蜀で名を馳せ、今日まで名を轟かせる武将となったのか、

その要因を個人的に考えると

  1.諸葛亮孔明との出会い
  2.類稀な軍事力
  3.内政を全く顧みなかった故の破滅

この3点に集約されるのかなと思います。

 

 今回は2点目として挙げた、彼の類稀な軍事力

そして出世街道を駆け上がる姜維についてご紹介します。

 

様々な偶然(と思惑)が重なり、蜀へ召し抱えらることとなった姜維

 

諸葛亮孔明の期待を一身に受ける彼は、

自身が蜀へ身を寄せるきっかけとなった北伐に従軍

順調に昇進を果たします。

 

しかし姜維との出会いから数年後の234年、

諸葛亮孔明五丈原の戦いの最中に病でこの世を去ります

 

天才という後ろ盾を失いますが、姜維の勢いは衰えることなく、

その後も順調にエリート街道を駆け上がり、

蜀の軍事の中枢を担うまでになりました。

 

しかし、このころから姜維と蜀との歯車は少しずつ食い違い始めます。

 

亡き天才が果たせなかった北伐に相当な思い入れがあった姜維はある日、

諸葛亮孔明とともに、蜀の四相と称される武将・費禕(ひ い)に

大規模な北伐を進言します。

 

しかしこのとき、費禕(ひ い)は静かに姜維を諭します。

諸葛亮孔明の力に遥かに及ばない我々が、

彼すらなしえなかった中原を治めることはできないだろう。

今は内政に力を注いで、人材育成し国力を高めて時を待つべきだ。

 

しかし、内政を顧みない姜維その言葉は届きませんでした。

 

数年後、費禕(ひ い)が暗殺され、姜維がその後を受けるようになると、

彼は数万の兵を率いて北伐に「傾倒」するようになります。

 

姜維がそれほどに北伐に「傾倒」する理由はなんだったのかはわかりません。

 

しかし、北伐に賭ける彼の狂熱に、

周囲の人間は徐々に彼から距離をとっていくのでした。

 

 

次回は蜀・孤独の人 姜維編最終回です。

 

→【次回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その3(最終回)はこちら

→【前回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その1 を読む

 

→【関連記事】劉備という人を読む

 

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日本史にふれる夜 その5

ブログの中の人2 第5回目の投稿 

 

日本史にふれる夜 その2

日本史にふれる夜 その3

日本史にふれる夜 その4

 

に続き

 

今夜も白洲次郎について書いていきます。

 

 

はっきり物を言える交渉力も評価され

吉田茂から終戦連絡事務局の参与を委任された次郎。

 

 

GHQと戦後の交渉をすすめることとなります。

 

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そんな中

彼は「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに言わしめた

出来事がおこります

 

 

それは

次郎が天皇からのプレゼントをマッカーサーに届けた時

 

 

そのプレゼントを隅に押しやったマッカーサーに対し

「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か」

と怒鳴りつけた出来事です。

 

 

プレゼントを持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと

言われていますが

 

 

確証はないのも事実です。

 

 

しかし

「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」

というプリンシパルが彼の中にあったからこそ

アメリカに完全に屈した交渉がすすむことなかったことも事実です。

 

 

 

そして完全に屈しない交渉者がいたからこそ

一方的でない講和につながったのです。

 

 

 

歴史の人物をクローズアップすると

どんな性格でどんな行動をなぜしたのかが

見えてくるものですね。

 

 

近々また歴史にふれる夜で

歴史上の人物について書いていきたいと思います。

 

 

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蒼き狼(2)

蒼き狼(2)

今回も次回に引き続き「蒼き狼」について述べていこうと思う。

鉄木真は自分に反抗的な弟を、家族の秩序を守るため殺すことを決意した。

鉄木真は反抗的な弟を矢で射殺した。反抗的な弟は殺されるときに、モンゴルの血の流れていない奴に殺されたくない、と叫びながら死んでいった。

これもまた鉄木真の心の中に自分にモンゴルの血が流れていないかもしれない、と思わせる大きな出来事であった。


その後、鉄木真とその家族は様々な困難を乗り越えていくが、モンゴル族は散り散りになり、他の部族に生活のために属するモンゴル族も多かった。

鉄木真は狩猟の最中に、自身が子供の頃に会ったことのある、モンゴル族の男をみつけた。その男も鉄木真に気づいたが、見捨てていったこともあり、立ち去ろうとしたが鉄木真はその男を引き止めた。

その男に鉄木真は尋ねた。「俺はモンゴル族か?あるいはほかの部族の血が流れているのか?」と。その男は他部族の者が年老いていくと、体に様々な特徴が現れるから、それで判断すればよい、と答えた。ただ鉄木真がモンゴル族はどうなる?と尋ねたとき、その男はただ、「モンゴルは狼になる」とだけ答えた。

その日から鉄木真の生きる目的は自分がモンゴル族であることを証明することになった。すなわち「狼になる」ことである。

次回に続く。

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はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その1

こんにちは、ブログの中の人3です。

 

今回は今までの文学のお話から少し離れ、

中国史上に燦然と輝く群雄割拠の時代を記した「三国志」について書いてみます。

 

というのも実は、

某コンピュータゲームで各武将の名前やその運命を初めて知った…

といっても過言ではないほど、三国志についての知識はほぼ皆無でして…

 

もちろん「諸葛亮孔明」や「劉備」、「曹操」といった有名武将の名や功罪は知っていましたが、

そのほかの武将については、名前を聞いたことがある程度…

 

ですが、共にブログを書いている中の人1と2が相当な三国志好きですので、

これをいい機会に、三国志についての知識を深めようと思い、

このテーマを取り上げてみました。

 

私のように「三国志ってよくわかんないなあ…」という方はもちろん、

三国志が青春だ」という方にも楽しんで頂けるようなコラムを書いていきます。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

それでは本題に入ります。

今回取り上げるのは蜀の武将・姜維です。

 三国志 武将 姜維 蜀 歴史 中国史

(画像引用:ウィキペディア)

 

→ 【次回】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その2 はこちら

→【関連記事】はじめての三国志 武将編 | 蜀・孤独の人 姜維 その3(最終回)はこちら

 

彼はかの名武将・曹操などを輩出した国・魏の生まれであり、

27歳まで魏に属していた人物だといわれています。

 

しかし、三国志上での主な功罪はほとんどが蜀の国でのものです。

 

なぜ魏の生まれである彼が蜀で名を馳せ、今日まで名を轟かせる武将となったか。

 その要因を個人的にまとめると

  1.諸葛亮孔明との出会い
  2.類稀な軍事力
  3.内政を全く顧みなかった故の破滅

 

この3点に集約されるのかな、と思います。

(あくまで三国志素人が語る個人的意見ですが…)

 

ではそんな姜維の功罪と生涯をポイントごとに追ってみましょう。

 

 

  1. 諸葛亮孔明との出会い

姜維は建安7年(202年)、天水郡冀県に、豪族の血筋として生を受けます。

前述したとおり、27歳まで天水郡の軍事に参与しました。

 

そして彼が27歳の年、今後の命運を左右する出来事が起こります。

諸葛亮孔明率いる、敵国・蜀が接近(北伐)の知らせを受け、

天水太守馬遵は姜維らを連れて領内の偵察を行います。

 

その最中、近隣の県が次々と蜀に降伏していることを耳にした馬遵は、

あろうことか自分の配下の姜維たちが諸葛亮孔明と内通しているのではと、

疑心暗鬼に駆られてしまいます。

 

そうして一人夜半逃亡し、上邽県城に立てこもってしまいます。

馬遵が逃亡したことを知った姜維らはもちろん馬遵の足取りをたどり、

上邽県城へとたどり着きます。

 

しかし時すでに遅し。

馬遵はもはや姜維たちの言葉に耳を傾ける余裕はありませんでした。

 

仕方なく冀県に戻った姜維たちでしたが、

そこでも受け入れてもらえず、

結果仕方なしに蜀に降伏することとなります。

 

この時なのか以前からなのかはわかりませんが、

名将・諸葛亮孔明は彼の才能を見抜き、

涼州最高の人材」と姜維を高く評価しました。

 

北伐時に失態・死罪となった愛弟子 馬謖を失ったタイミングもあったでしょうし、

姜維の年齢が、諸葛亮孔明劉備に取り立てられたのと同じ27歳だっとこともあるかもしれません。

 

なにより姜維本人の才能が諸葛亮孔明を魅了し、

姜維は以後蜀で順調に出世街道を歩いていくのでした。

 

この出会いがなければ、姜維の今日の名声はなかったかもしれません。

しかしこのことが、後々彼を破滅の道へと歩ませることにもなるのですが…

 

それはまた次回お届けします。

 

次回は諸葛亮孔明を魅了した、その類稀なる軍事力の一端をご紹介します。

 

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→【関連記事】『劉備という人』を読む

 

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